No.02
名前 池谷賢二
職業 芸人(よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属、コンビ名「犬の心」)
出身 静岡県
卒業年/学部 2001年 体育学部健康学科卒業
所属部 軟式野球部
静岡県内の進学校から日体大へ。サッカーを続け、卒業後はスポーツトレーナーか教員になれればと思っていた。しかし同級生の「一緒にお笑いやらない?」の一言で運命が大きく変わった。現実はお笑いの世界だけで生活するのは厳しく居酒屋でのバイトの日々。そこで多くの人とかかわり自分を磨き、料理の腕を磨いた。「犬の心」のコンビ名で着々とお笑いの世界で実力発揮し、「キングオブコント2014」ではファイナルに進出。その後はTV番組の「ウル得マン」として、バイトで培った料理の腕を存分に発揮し注目されている。芸歴20周年を迎える池谷さんに話を聞いた。
日体大に入学して、予想外のお笑いの世界へ 日体大に入学して、予想外のお笑いの世界へ
— 池谷さんが日体大を選んだ経緯を教えてください。
私は典型的な野球少年で、小学校、中学校とずっと野球をやっていました。ところが肩を壊して投げられなくなったのです。この先どうしようかと迷った時に、野球ができないなら勉強を頑張ろうと思って、高校は県内の進学校でもある静岡県立御殿場南高等学校に入学しました。
野球はできなくなったので、高校ではサッカー部に入部しました。ポジションはスリーバックの真ん中のセンターバックです。静岡はサッカーが盛んな土地柄ですから、私もサッカーに打ち込んでいきました。一生懸命やっていくうちに、次第に大学でもサッカーをやりたいと思いはじめ、日体大に進路を決めました。
実は、野球で肩を故障した経験があったので、スポーツトレーナーに興味があったことも、体育大学を選択した理由のひとつです。ただ、周りの人たちの話を聞いてみたら、みんな日体大を卒業して学校の先生になりたいと言うのです。それで学校の先生もいいかもと思って、スポーツトレーナーと学校の先生の2択で行こうと決めました。
学科は健康学科を希望しました。筆記試験は自信があったのですが、実技試験が大変だと思って体育進学センターにも通いました。でももし合格しなかったら、体育大学は諦めて、一般大学を受験するために一年浪人しようとも決めていたんです。そうしたら日体大に合格することができただけでなく、お笑いもやるようになってしまいました(笑)。
— 日体大では念願のサッカー部に?
入学してから1・2カ月後にはもう吉本興業に入っていましたので、結局サッカー部には入部しませんでした。しかしやっぱり野球が好きだったんでしょうね、軟式野球部の監督やキャプテンに私の活動に理解をいただき「参加できる時に練習に来ればいいよ」ということで軟式野球部に入部しました。
— 入学してすぐにお笑いの道へ? 日体大から芸能界に入られた卒業生は何人かいらっしゃいますが、池谷さんがお笑いの道に進むきっかけは何だったのですか?
入学した当時はまったく「お笑い」をやるとは思ってもみませんでした。実はたまたま入学時のオリエンテーションで隣に座ったのが今の相方の押見泰憲なんです。相方はとても地味でいるかいないかわからないような奴だったのです(笑)。そんな彼からいきなり誘われたんです。「一緒にお笑いやらないか」と。私も昔から文化祭などで目立っていたほうでしたので、「そんなノリでいいならやってもいいよ」という話から、お笑いのオーディションを受けに行ったのです。そうしたら思いっきりすべってしまって、悔しくてもう1回やらせてくれと再度挑戦したのです。そこで認められて1998年に吉本興業へ入社となりました。
そういう経緯でしたから相方とはいっときも友だちだったことがないんです(笑)。最初から完全にビジネスパートナーです。仲良くもないし仲悪くもない感じ。学生時代もグループも違いましたし、全然別行動でしたね(のちに押見氏は日体大中退)。
「犬の心」として活動を始め、結構ウケたこともあって、それから1年くらいは学業とお笑いの活動で忙しく日々を過ごしました。健康学科でしたから看護実習もありましたが、お笑いの道に決めたので行かず、とにかく大学をストレートで卒業できればいいなと思っていました。教職実習も舞台と重なって行かれませんでした。同級生がいろいろな面で協力してくれて、とくに4年の最後の最後は友だちのおかげですね。みんながいなかったらたぶん卒業できていないですよ(笑)。本当にいい友だちに巡り合えたと思っています。そういう運も持っているんです。
もともと4年の時から、とくに仲が良い3人でルームシェアして住んでいました。卒業してからも関東にそのメンバーで住んでいたので、みんなで集まる場所があったので疎遠にはならず、今でも交流は続いています。
バイトでの経験が自分を磨き、料理の腕を磨いた バイトでの経験が自分を磨き、料理の腕を磨いた
— 実際にお笑いの世界はどうでしたか?
日体大はスポーツでどの高校でも1・2番だったような人が集まる場所と言えますよね。しかし、お笑いの世界はこれまた極端で、学校で一番面白い奴が集まっているかというとそうでもなくて、もっと深いんです。1人1人の持っているバックボーンだったり。だから圧倒されましたよね。私は学生気分で入っていたんで、芸人の世界に足並みそろえるまでがとても大変でした。やっと「俺は芸人だ」と胸を張って言えるようになったのは30歳ぐらいになってからです。もうお笑いの世界に入って今年で20年目となりますが、本当に「芸人です」と言えるようになったのはデビューから10年くらい経ってからですよ。お笑いの業界は見た目の華やかさと違って本当に大変なんです。
— そんな中で、お笑いの業界でやっていくには何が大切ですか?
一番は「運」です。私は持っていたのでしょうね。運とあとは「自信」です。「自分は売れるという運を持っている」という自信を持っていたんですよ。それで突き進んでいった結果ですね。
— 大学を卒業してからはお笑い芸人として順調だったのですか?
吉本興業ですから(笑)。仕事は決して順風満帆とはいきませんでした。ですからバイトの日々です。軟式野球部で代々続いているバイト先の二子玉川の居酒屋「庄や」でしたが、先輩がそこで仕事しているからと誘ってくれたのです。板前のアルバイトをして料理はそこで学びました。庄やグループの中で転々として17年はいました。お笑いの仕事をしながら、バイトを続け、「ウル得マン」のお話をいただく1年前くらいまでやっていました。
— 料理の腕は「庄や」で磨いたということですが、その他にバイトの経験がお笑いにプラスになったことはありますか?
これまでバイト先で出会った人は数万人になると思いますから、人を見抜く力は長けているかもしれませんね。人の懐に飛び込むのが上手いようで50・60代のおじさまにも随分とご贔屓にしてもらいました。実は、このバイトでいろいろな方と接してきた経験は、お笑いはもちろんですが、芸能界での人付き合いにすごく役立っています。
たとえば師匠方とお付き合いする時にすぐに親しみを持って接していただけます。そこは本当にありがたいことで、皆さんに可愛がってもらっています。これはバイトの経験だけでなく、日体大の上下関係の中で学んだ、目上の方への気づかいや対応などさまざまな経験が社会に出ても役に立っていると言えます。
— 人付き合いを上手くするコツは?
私には「人を嫌いにならない」という持論があります。人を嫌いになるのは一番さびしいことだと思っていますので、とにかく人を好きになる努力をこっちがしてあげる。それをすることによって、人に嫌われる人に好かれます。「おまえあいつと付き合っているの?」とよく言われますよ。クセの強い人にめちゃくちゃ好かれますね。
これは親から受け継いだものなのかもしれません。父親もすごく明るくて、なんでも「いいよ」と言ってしまうような人なんです。
— 2013年から日本テレビ系列で放送されている情報バラエティ番組「得する人損する人」の中で、得損ヒーローズ「ウル得マン」としてブレークしていらっしゃいますが、「ウル得マン」になったきっかけは?
お話をもらったというか、けんかを売りにいったのですよ(笑)。
実は私はYouTubeで「再現料理人」ということで動画配信していたのですが、ありがたいことに業界内でそれが話題になっていたのです。ただその番組では他の人で同じような企画をやりはじめて「先にやられた」と正直ショックでした。その企画に対して私の動画を見ていてくれていた方々が、ありがたいことに「池谷が先にやっていた企画だ」と声をあげてくれたこともあって直接番組に話しに行ったのです。すると話を聞いたチーフ作家さんが、絶対に当たるヒーローにしてあげるからと言ってくれたのです。それから2カ月ほど過ぎたある時「30分内に身近な食材で何品も料理をつくれるキャラクターができるか」と聞かれ、そのキャラクターが「ウル得マン」だったんです。
2016年4月21日放送分から登場したのですが、初回の視聴率はすごく良かったんです。これはいいぞと思ったのですが2回目は最低視聴率で……。でもめげずにやっていたら、次はまた最高視聴率をとったんです。ウル得マンが出た時間帯は必ず視聴率が上がるというデータも出て、企画としても大当たりとなりました。
ウル得マンの反響はすごかったです。普通に歩いていても誰も気がつかないのですが、ウル得マンの赤い帽子をかぶった瞬間に「ウル得マンだ!」と。特に子どもたちにすごい人気なんですよ。
芸歴20年目を迎え、新たな境地へ 芸歴20年目を迎え、新たな境地へ
— 一気に生活が変わったという感じですか?
変わりましたかねぇ~(笑)。『キンオブコント2014』(TBSテレビ)でファイナルにもなりましたが、今は仕事の内容が料理に偏り出したというか、お笑いよりは料理関係の仕事が多くなりました。おかげさまで2016年に出版させていただいた『いけやの料理帖~だし、しょうゆ、みりん、酒で味が決まる~』(ワニブックス)も大変好評をいただいておりますが、そこは吉本興業ですから(笑)。
— 今後の活動は?
フィールドをじわじわ変えていかなければいけないと思っていたところに「ウル得マン」の仕事が来てくれて、良かったと思っています。これまで舞台もお芝居もいろいろ経験を積んできたので演技力には自信があります。これからはお笑いや料理だけでなく、いろいろなジャンルに挑戦していきたいと思っています。
— 日体生に伝えたいことはありますか?
「俺みたいになるな」と言いたいですけどね(笑)。
日体生は、いい意味で一直線の人が多いというか、それは間違いではないと思うので、そうした精神を貫き通してほしいし、「日体」を誇りに思って生きて行ってもらいたいなと思います。
最近の若い人たちをみていると、ふにゃふにゃした人が多いんですよ。そんな中で日体生はしっかりしています。ピンと背筋を伸ばして生きて行ってほしい。
私は今でも日体大が大好きです。